新・じゃのめ見聞録  No.5

   ならぬことは、本当に「ならぬ」のでしょうか

2012.11.27


 自分もその時が来たら人を殺すのではないかという思いがあり、その場合の「その時」を巡って少し考えたことを、時事コラムに「レクイエム2012ー戦争と殺人-」と題して投稿したのですが、掲載は認めらなかったので、同じテーマを巡って違う角度からまた少し考えてみました。

前の一文でもふれましたが、吉海先生が発掘された「新島八重子刀自懐古談」はとても大事な資料です。(ちなみに「刀自(とじ)」とは年輩の女性を敬意を添えて呼ぶ語です)。ここに八重がどのような教育を受けてきたのか、まとまって話をされています。この資料は八重のなくなる直前に語られたもので、87歳の時の記録です。この歳になっても昨日のことのように語られる会津戦争は、やはり八重にとっては、忘れようにも忘れられない、八重の深層を形作るものであったと思われます。その本文はしっかり読み込んで、十分に多面的に理解されるべき資料だと私は思います。今回はその中の大事なエピソードについて考えてみます。

 そのエピソードは、会津の少年たちを語っている場面にみられます。これはただの回想録ではないのです。八重の苦悩の記録として読まれるべきものだろうなと思います。

 そもそも会津の武士の少年たちは、「汁の掟」や「日新館童子訓」を唱和しながら、会津の少年兵としての精神構造をつくっていったわけで、それが「妥協」や「交渉」の活路を模索する思考を拒み、「自害」という惨劇の道を選ばせることになってゆきました。そして、その悲劇は「美談」でもないし、「勇敢な行動」でもない、ということを私たちは歴史から学ばなくてなりません。この、「妥協」や「交渉」の活路を見い出してゆこうという思考法ではなく、あくまで藩主の言うとおりに生きる思考法が、会津の掟では「ならぬものはならぬ」という言い回しで伝えられてきているものでした。そうした「武士の教え」が、今度同志社女子大学発行の『同志社の母 新島八重』という本の帯にすり込まれているのを見て、この言葉は武士を統制するための特別な条件下で作り出された言葉であったはずなのに、それが注釈抜きに現代の女子大の学生にも通用するかのようなお薦めの言葉としてよみがえってきた印象を受けたのは、私だけだったのでしょうか。

聖書には右のほほをぶたれたら左のほほを、という教えがあります。これは、ならぬことはならぬの教えとは違います。また日本の庶民の知恵としては「ならぬかんにん、するがかんにん」ということわざがあります。これは、社会で生きてゆくには、ならぬことをならぬと言い切らずに考えるという思考法のお薦めです。そこに本当の意味の我慢があるとことわざは教えてきたものです。ここでの「ならぬことをならぬと言い切らない」ことは、ただの我慢ではなくて、近いうちに訪れるであろう交渉の余地を見据えた上での、人人との関係を円滑にやってゆくためのの知恵つくりのことでした。

 しかし武士たちは「ならぬものはならぬ」といって相手の価値観を認めない思考法、交渉の余地を作らない教えを武士の子どもに教えてきました。その武士のモットーが端的に「ならぬものはならぬのです」というコピーにされてきています。

 私がこのことを実感的に思ったのは、「新島八重子刀自懐古談」を読んだ時でした。八重自身がこういう「武士の教え」を受けて育ち、それをさらに年下の子どもに教えていったことが、結局「白虎隊」の惨劇を生むことになり、歳を重ねるごとに、それでよかったのだろうか、という自問をあの会津落城の日から自分に投げかけていたように思われたからです。その苦渋の思いが、この「懐古談」に読み取れるから、この記録はとても大事な資料だと私は感じるのです。

 そこには、会津戦場下で十二三の子どもが、八重さんが進撃するのなら連れて行ってくれと言うのを聞いて、その子どもたちのことを思い出すと未だに涙がこぼれます、といって涙を拭きながら語っている八重の姿が記録されています。さらに具体的には、鉄砲の音に怖がる少年を叱咤し、結局砲術を教えた子のことについて、こう話をしています。

 「それでは教ヘてやらうと云つた。その教ヘた子が死にました時は、実に可哀相てございました。一昨年も国へ行つて墓へ行きますと、自分が砲術を教ヘた子供の石碑が一番先に眼につきます。」

本来であれば、武士の心得通りよくやったと言えば済むところであるが、八重の心には、武士の心得を教えたことが、その少年を死に導いたことになり、それで本当に良かったのかという、言葉にならない思いが、この87歳の年になってでてきているところが、こういう回想から読み取れるのです。この武士として生きねばならなかったことと、その武士の教えを生きる事が導いてしまった悲劇への思いの、その相矛盾する心の葛藤の中で八重は生きていたのだということが、この記録からはよく読み取れます。

 それなのに、現在になって、また「ならぬことはならぬのです」という武士の価値観だけを生きたかのようにみなされるキャッチコピーを本の帯につけるのは、八重の深層が共有できていないのではないかという気が私にはいたします。そこを強調すると、同志社のキリスト教の精神や国際主義の精神と、どういう風に関係するのかうまく理解しにくくなります。国際主義で「ならぬものはならぬ」といってしまえば、異文化との交流は決別してしまうでしょうから。それでも女子大生に「ならぬものはならぬのです」を伝えたいのなら、もう少し深く八重の深層に降りた理解を踏まえなくてはならないのではないだろうかと思います。